「経験至上主義」は、人をもっと優しくするのかもね。


http://blog.livedoor.jp/mahorobasuke/archives/50496546.html

 「関東大震災朝鮮人虐殺がありました」はい、じゃ、それが記された公的な文書の原本を直接、見た人はいるのかな?

 「そういうことがあったと本で読んだ」という人、その本の著者がどうやって事実確認をしたのか、そしてその確認方法が正しかったのか、検証したのかな?
 「虐殺を見た人の証言を聞いた」というなら、その証人が本当のことを話しているとどうやって確認とったのかな?
 もし、あなたが何らかの公的な書類をその目で見たことがあるなら。調査が適切に行われたのか、文書が捏造されてないか、検証しましたか?


id:hazama-hazama氏が上のエントリをつぎのうように誉めてます。

『[unko][春秋右氏伝][寝言ポエム]出たあ〜!!経験至上主義!!ところであなたは竹島行ったことあります?竹島って本当にあるんですか?』


なるほど。自分が経験したものしか信じない。いや、自分が経験したものであっても、その「経験」の背後にあるものをも疑ってみる。う〜ん、すばらしいじゃないですか!☆!☆!☆


経験至上主義者なら、例えば*1次のような「問い」に至るのは時間の問題だもんね。

  • 私の母親は日本人だということになっているが、あの母親は私の本当の母親なのか?
  • 私の父親は、自身を日本人だと言っていたけれどそれは本当だろうか?
  • 私の祖父は、本当に山梨県*2の出身なのか?朝鮮半島の出身ではないのか?
  • 私の祖父母達は、自分の子どもには苦労させまいとして、「在日」という属性を隠していたのではないか?
  • 私は、ほんとうに日本人なのか?
  • 私は、ほんとうに在日ではないのか?
  • 私は、いわゆる「在日」の人と、何ら変わらないのではないか?


あらゆる可能性を想定するというのは辛いことだ。可能性はいつもポジティブなものとは限らないし。でも、そのネガティブな可能性に耐え、自分自身による自分自身への「ステレオタイプ」を疑ってみる姿勢こそ、他者に対する想像力、つまり優しさにつながるんじゃないのかな。上の人には、経験至上主義を「自己正当化」の道具にだけは使わんでほしいなぁ、と。

*1:あくまで「例えば」ね。

*2:任意